それなりに意気込んで出発した中山道中膝栗毛は散々なものだった。そもそも出発を考えていた朝に叔父が急逝したという連絡が入ってすぐに魚沼に行かなくてはならなくなった。通夜と葬式のまとめをやって、後片付けをして、ついでにいくつかの雑用をこなしているともう6日経っていた。それでも少しばかり歩こうと、ここのところ長距離ハイクでいつも履いていた Vibram 5 fingers を身につけて日本橋を出た。これが良くなかった。ここのところ長距離歩くときはいつも山歩きだったから意識していなかったのだが、アスファルトはやはり土や木よりも遥かに硬いのだ。それでも比較的ソールが厚いものを選んでいったのだが、全く見込みが甘かった。足の裏に大きな水ぶくれができてじくじくと傷んだ。それだけならまだしも、右の膝を少し曲げるとすぐに痛みが走るようになって、いつものように歩けなくなった。慌てて取りがかったABCマートで徒歩用のReebokを買ったけどもう手遅れで、末にはまったく膝を曲げることができなくなった。なるほど人類はアスファルトの上を長距離歩けるようにはできていないのだ。あらゆる道を真っ黒なアスファルトが覆ってしまったいま、膝栗毛をしたいとも思うならば底に分厚いクッションが入った靴を履かなくてはならない。
そういうことで一旦鴻巣までで撤収することにした。わたしは膝に半月板奇形を抱えていて、あまり痛くなるようなら歩くのはやめろと医者に言われているのだ。走り込みをやりすぎて膝を痛めた小学生時代以来、歩けなくなるほど痛くなったことはなかったのに、これも年というものだろうか。
ちょうどJR鴻巣駅そばまで来ていたので、高崎線にすぐ乗れた。鴻巣から北本、桶川、上尾、大宮。電車は早く、わたしが何時間もかけて歩いた道のりを、たかだか数分で飛ばしていった。わかっていたことだけど、わたしはなんだか寂しくなった。鴻巣が人形の街であることも、もともとは北本に宿があったことも、街道沿いにへんな名前のパブがあることも、電車に乗っている人は気付かない。JRの乗客にとって、これらの街は単なる通過点の名前でしかない。歩いてみて初めてわかる厚みというものを、微塵も感じずに人はそれらの駅を通り越していく。わたしだってもともとはそうだったくせに、なんだか歩いた街に愛着が湧いていて、それが単なる通過点に過ぎないことに悔しさを覚えた。
旧中仙道沿いを歩いていると、以前から宿場だったところと、そうでなかったところの間に明確な差があって面白い。昔何もなかったところは区画が広く、いわゆる郊外的な建物が建っている。ガソリンスタンドがあり、パチスロがあり、プレハブの弁当屋がある。けれども昔ながらの宿場に一歩入ると、区画がとたんに狭くなり、建物どうしがお互いを支え合うように建っていて、多くが瓦張り木造のむかしの家だ。だいたいの町ではそこが宿だったことを示す旗や門があり、人形屋だとか和菓子屋だとか、明治以前に創業したような店が並んでいる。郊外と宿場が交互してやってくる風景は、歩いていてとても楽しかった。次は絶対に高崎まで行こう、そう思って、わたしは足を引きずりながら東京へと向かった。