The Decisive Strike

Pulvis et umbra sumus.

書けなさ、について

父が死んでから十余年が経った。母は今でも当時と同じ家に住んでいる。幾度となく引越しについて話して、経済的にはそうすることが合理的であることはわかってはいるのだが、どうしてもあの家を手放すことができない。それは何故だろう。

わたしもまた、幾度となく父について書こうとしてきたが、そのたびにまとまった文章を書くことに失敗してきた。ノートを広げ、ペンを持って、いざ書かんとしても、いつも書き出すことに失敗するのである。いくつかの文章をこねくり回しても、どこか違和感が残って、最初からやり直す、ということを繰り返してきた。それは何故だろう。

時間がないから。仕事が忙しいから。ほかにもっとやるべきことがあるから。そういう理由をつけてやらないでいたこともあった。けれどもそうではないだろう。時間がある程度あったとしても、わたしは父についての語りを始めることができなかった。それが何故か、ようやく理解できた気がする。

我々は父について過去形で語ることができていないのだ。我々は今でも2006年にいる。過ぎ去ろうとしない過去の中を生きている。彼がひょんなことで、ふと家に帰ってくるのではないか、そう思いながら彼を待っている。だから父について現在形で語ることはできても、彼がどんな人だったかとか、どんなことを考えていたかということについて、過去形で語ることは、未だできない。そういうことだ。

そして今年も、2月13日が来る。